救援、天の父母様の涙ぐましい放蕩息子の帰還プロジェクト
救援とは何でしょうか。多くの宗教で救援を苦痛からの逃避や死後に天国に行くことと理解してきました。しかし原罪論で見てきた堕落の本質を考えてみると、救援の意味ははるかに根源的です。堕落は単純な道徳的過ちではなく、生命の根源である天の父母様との愛のへその緒が断ち切られ、サタンの偽りの血統と結ばれた宇宙的悲劇です。
したがって真の救援は、悪党に誘拐されて不治の病にかかり死にゆく子女を奇跡的に探し出し、本来の健康な姿に回復させる過程のようなものです。全知全能な創造主である前に人類の真の母である天の父母様にとって、救援摂理は失われた子女を創造本然のエデンに戻すための復帰摂理でしかありえません。救援は審判官が下す安価な免罪符ではなく、サタンに奪われた血筋を取り戻し、断ち切られた真の愛のへその緒を再びつなぐ壮大かつ凄絶な癒しの大叙事詩です。
キリスト教神学が明らかにした十字架の贖罪と信仰義認の恩恵
キリスト教神学は救援の方法を説明するにあたり、使徒パウロの書簡と宗教改革者たちの洞察に深く負っています。キリスト教救援論の核心は十字架の贖罪と信仰義認です。堕落した人間が自らの善行や律法を守る行為だけでは決して罪の代価を全て払うことができないため、罪なきイエス・キリストが人間が受けるべき怒りと刑罰を十字架で代わりに背負い、血を流されることで神の義を満たされたというものです。
人間はただこのイエス様の十字架の功労を信仰によってのみ、無償で義とされ救援を得ます。マルティン・ルターとジャン・カルヴァンに代表される宗教改革者たちは、ただ信仰とただ恩恵を主張し、人間の功績を掲げる中世カトリックの堕落に対抗して福音の本質を回復しました。このようなキリスト教の救援論は、罪人である人間に向けた神の無条件的で圧倒的な恩恵を示す偉大な神学的告白です。
しかし一方では避けられない疑問を残しました。もし十字架の血によって人類の原罪が残らず一度に赦されたのなら、なぜ十字架以降2千年の間、敬虔なキリスト教徒さえも依然として肉体の情欲と罪悪の中で苦しんでいるのでしょうか。なぜ生まれたばかりの純潔な赤ちゃんは依然として原罪の軛を背負ったまま洗礼を受けなければならないのでしょうか。これはキリスト教の救援論が人間の霊的救援においては偉大な勝利を収めたものの、肉身と血統の最も深いところに根を下ろした罪の鎖を完全に断ち切る実体的救援に至るには構造的な限界があったことを示しています。
割礼と洗礼、救援の外的標識が込めた摂理的意義
歴史の中で人類はサタンの汚染された血統を脱ぎ捨て、神の子女として戻るために凄絶にもがき続けてきました。その救援の儀式として与えられたのが旧約時代の割礼と新約時代の洗礼です。神がアブラハムとモーセに命じられた割礼は、男性生殖器の表皮を切り血を流すことで、堕落によって悪の血を受け入れた体からその悪の血を抜き出すという条件を立て、世の万物の中から聖別するためでした。これによってイスラエルはサタンと区別された神の選民という アイデンティティを血の中に刻み維持しました。
新約時代に至り、キリスト教は洗礼を通して救援の恩寵を可視化しました。洗礼は水の中に沈むことで過去の古い自我は完全に死に、水から上がることでイエス・キリストと結合して新しい生命として復活することを意味します。これはイエス様の十字架の受難と復活に与かり、罪の赦しを受け神の霊的家族に編入されることを宣言する聖なる儀式です。しかし使徒パウロが「表面的な肉体の割礼が割礼ではなく、ただ内面的ユダヤ人がユダヤ人であり、割礼は心に施すべきだ」と力説したように、洗礼という外的儀式そのものより十字架の贖罪を完全に信じ、内なる人が心情的に生まれ変わる霊的重生がキリスト教救援の真の本質でした。
蕩減復帰、母の知恵であり崇高な愛
原理講論はキリスト教の信仰義認救援論を否定せず、創造原理に立脚してその不足していたパズルを完璧に組み合わせます。救援は何の努力もなく一方的に与えられる魔術的免罪符ではありません。ある存在が本然の位置を喪失した時、元の位置に戻るためには必ず相応の条件を立てなければなりませんが、これを蕩減と呼びます。
よく蕩減という言葉を聞くと、鞭を持って罪の代価を要求する厳格で恐ろしい審判官を思い浮かべがちです。しかし天の父母様の心情的観点から見ると、蕩減は恐ろしい刑罰ではなく、傷ついた子女の自尊心を立ててあげようとする母の知恵であり崇高な愛です。子供が他人の家の窓ガラスを割った時、親が一方的に代わりに罪の代価を払ってしまえば当面の危機は避けられますが、子供は自分の行動に責任を持つ成熟した大人に育ちません。真の母は子供の手を取って一緒に行って頭を下げて謝罪させ、子供の小遣いを少しずつ貯めて賠償に充てさせることで、子供が自ら責任を果たした堂々とした人格体として成長するよう助けます。
このように蕩減復帰とは、人間を神の永遠の債務者に転落させず、必ずや創造主と対等な愛の主体であり万物の堂々たる主管者として立ててくださろうとする天の父母様の涙ぐましい教育方式です。このような蕩減条件を立ててサタン主管圏から脱し神の直接主管圏に戻る漸進的な過程的現象を原理では復活と呼びます。肉身の生死が物理的に変わったり、腐った墓から死体が起き上がる現象が復活ではありません。イスラエルの割礼やキリスト教の洗礼もまた、サタンとの関係を断絶し天側に立とうとする決断を通して霊的生命を得ていく偉大な復活の蕩減条件だったのです。
十字架の真の意味と霊的重生の摂理
この蕩減復帰の絶対的法則から見ると、独り子イエス様がこの地に来られた究極的目的は、人類の罪を背負って十字架で悲惨に死ぬためではありませんでした。イエス様は生きてイスラエル民族の熱烈な歓迎の中で万王の王として推戴され、花嫁を迎えて真の家庭を成し、霊肉を包括した完全な実体的救援を立てるために来られました。
しかしユダヤ民族が自らの責任分担を果たせず排斥したことにより、摂理は崖っぷちに追い込まれました。イエス様は人類を地獄の奈落から救出するため、涙を呑んで次善の策として自らの体をサタンの讒訴条件として差し出す十字架の道を選択せざるを得ませんでした。十字架で肉身は結局サタンの攻撃に渡されたため、人類を縛る肉的原罪の根はそのまま残ることになりました。偉大な使徒パウロさえ「私の肢体の中に別の法則があって、私の心の法則と戦い、私を罪の法則の捕虜とするのを見る」と絶叫した理由がまさにここにあります。
肉的救援の完成は再び来られる再臨の時に残されましたが、復活されたイエス様は霊的真の父として、霊的真の母の立場である聖神とともに、十字架の宝血に依り頼む人類を霊的に再び生んでくださる霊的重生の偉大な歴史を開かれました。「水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」とイエス様が語られたように、キリスト教徒たちは十字架の贖罪を固く信じ洗礼を受ける蕩減条件を通して、霊的重生と復活の恵沢を享受し、今日まで摂理の灯を灯し続けることができました。
救援の最終完成、真の父母の祝福と血統転換
キリスト教のただ信仰と洗礼が堕落した人類を霊的に蘇生させた偉大な救援の第一歩だったとすれば、人類の血筋の最も深いところを縛っている血統的罪悪の鎖を完全に断ち切り救援を最終完成するためには、十字架の霊的救援の限界を超えて霊肉を包括するメシアが再び来られなければなりませんでした。この地に目に見えない天の父母様をお迎えした実体的三位一体として来られるべき方々が、まさに再臨主、すなわち真の父母です。
この地に来られた真の父母様は、人類史上誰も成し遂げられなかった凄惨な蕩減の茨の道を単独で勝利され、サタンの血筋を完全に断ち切り天の善なる血統として生まれ変わる祝福結婚の聖なる恩賜を全人類に大きく開いてくださいました。祝福は過去の旧約の割礼や新約の洗礼のように単に霊的にサタンを分立する復活の次元を遥かに超えます。それは真の母の胎中を通して本然のアダム・エバの立場で新たに生まれ変わったという絶対的条件を立てる、究極的かつ完全な血統転換の儀式です。
しかしこの途轍もない祝福の恩恵は決してただで与えられるものではありません。真の父母様は「血統を転換することはメシアがするかもしれないが、実体的にその転換の生を行動するのは自分自身でなければならない」と厳粛に語られました。洗礼を一度受けたからといって信仰の完成ではないように、祝福式は救援の安易な終着点ではありません。それはサタンの残滓と習慣を日々脱ぎ捨て、創造目的を完成した聖なる天一国の民として絶えず成長していかなければならない偉大な出発点です。
蕩減復帰を通して新たに生まれた祝福家庭たちが、骨を削る責任分担で各自の利己心を克服し天の父母様の真の愛を実践する時、私たちは初めて罪の苦痛のないエデンの本然的生活、すなわち共生・共栄・共義主義の平和世界を定着させることができます。救援論は結局、私一人が「イエス天国、不信地獄」を叫んで死後天国に行く個人の栄達を大きく飛び越えて、母なる神の温かい懐の中で80億人類全体が血統的に生まれ変わり一つの家族となる眩い地上天国に向けた胸躍る摂理的大叙事詩なのです。
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